今月も木鶏会から感想文を紹介します。
感想文を書かれた社員は総括ミーティングは欠席していましたが、代表感想文に選ばれた別な社員が代読しました。
深い感動を覚え涙なしには聞けませんでした。一方で、支え合う仲間がいることの喜びをひしひしと感じました。
ブログで紹介するかどうな悩みましたが、一所懸命頑張りすぎて責任をついつい背負いすぎる人に、読んでもらいたいと思い紹介することにしました。
是非、ご覧ください。
生き方の法則というテーマのもと、特集では賢人の言葉を引用しつつ「心」の在り方について説かれていた。この中で紹介されていた「心には放っておくと雑草が生える」というフレーズはいつでも私の心の中にある。
日々感じることで言うまでもないことだが、人の心はとても揺らぎやすい。他人の心に揺らぐことがあれば何かのせいにして自分に甘くなることも多々ある。悪の道とまでは言わずとも、楽な方向に流れてしまったり、まあいいかと妥協してしまいそうなこともある。このようなとき、私はいつも自分を戒め自己犠牲があたかも美徳のように感じていた。いわゆる良心がそのようにできていた。
しかし、どうやらちょっと考え方の角度を変えてみたほうが良かったとこの数か月思うところである。もちろん自分自身の考えや良心に従うことも大切だとは思うが、他者の手をもっと借りれば、他の人の意見に耳を傾けていればと思う。
他者との関わりの中で考えることとして、利他と自己犠牲は目的と手段のような関係であり、身勝手な正義を振りかざすのと同様に、自己犠牲にはしっかりとその目的を据えていなければいけない。他者と協力していく社会の中で、自分自身だけで考え取り組む目的は時に空回りしてしまう。仕事の上での目的には必ずお客様があり仲間があり、見失わないためにコミュニケーションは欠かせない。目的を見失った自己犠牲から得られることはあまりない。
この数か月思うこととして心が揺らいでもいいじゃないかということもある。揺らぐことに罪悪感を感じる必要もなければ自責する必要もない。建物の地震対策にも免震・制震・耐震があるがそれぞれ適材適所であり、地震の揺れをストレスや誘惑と例えてみても、受け流したり吸収したり耐えたりと色んな手段がある。揺らがなければ支える心が疲れてしまう。ただ、揺らいだ時に何が良い選択か考えることだけはやめることなく、感情と論理のバランスを保てる人になる修練を積み続けたい。
最近、しばらくご無沙汰となっていた靴磨きをまた始めた。久しぶりに手に取って間近に見た革靴はほこりをかぶっていたが丁寧に磨くとまた元の輝きを取り戻した。まるで放っておくと雑草が生える心のように思えたが、一から磨くとまた光る革靴のように、希望をもって1つ1つ丁寧に努めていきたい。